剣豪・宮本武蔵の世界

 剣豪・宮本武蔵は作家「吉川英治」の小説(昭和15年初版)で一躍脚光を浴びたが、武蔵は29歳のとき巌流島で佐々木小次郎との決闘を最後に、その後の武蔵については余り知られていない。
 後に作家・小山勝清が「それからの武蔵」を書いて巌流島での決闘以降、謎とされていた武蔵の諸国放浪の旅や晩年を熊本で過ごした武蔵の生涯を小説化し話題となりました。
 また村上元三や五味康祐も武蔵を小説に書いており、映画の世界では嵐寛十郎、片岡千恵蔵、近衛十四郎、辰巳柳太郎、三船敏郎、中村錦之助、高橋英樹、TV時代になって北大路欣也、役所広司などが主演しましたが、私はこれらの殆どを読んだり観たりして武蔵の追っかけファンでありました。
 武蔵は「忠臣蔵」同様、歌舞伎や講談、映画、TVなどの世界ではいつもスーパースターであり、中でも内田吐夢監督・中村錦之助主演の宮本武蔵シリーズは五部作の圧巻でしたが、すべて映画館の封切り日に観に行った記憶があります。
 また熊本で9年間過ごした私は、晩年を熊本で過ごしその波乱万丈な生涯を閉じた武蔵の足跡を訪ねたり、郷土史家(武蔵研究家)の先生宅を訪問して話を伺ったりしたなつかしい思い出があります。武蔵ファンの一人として、私なりの視点で武蔵について学んだ事、知っている事などいろいろ整理してみました。このレポートをご覧になれば、皆様も立派な武蔵通となり武蔵ファンになる事でしょう!

<謎の多い武蔵の出生!>
 武蔵の出生については諸説ありますが、大きく分けて次の三ヶ所が有力とされている。
@ 岡山県英田郡大原町宮本(旧・美作国吉野郡甘村宮本)
 大原町説は元禄時代に書かれた「宮本村古事帳」に天正から慶長にかけて
 宮本無二斎・武蔵親子が住んでいたという記述があり、現在これが定説
 とされており吉川英治もこの説をとっている。武蔵ゆかりの資料館や武蔵
 誕生の碑、武蔵神社、更には武蔵駅や武蔵道場などがある。
A 兵庫県高砂市米田(旧・播磨国印南郡米堕村)
 武蔵の二番目の養子となった宮本伊織の出生地であり、伊織が作成した
 宮本家系図や播磨加古川の泊神社の改修時に納めた棟札の記述による
 もので武蔵生誕の碑や「独行道」の碑など武蔵関連の記念碑が多くある。
 伊織は後に北九州・小倉藩・小笠原家の家老に出世した。
B 兵庫県揖保郡太子町宮本(旧・播磨国揖東郡宮本村)
 宝暦12年(1762年)に著された「播磨鑑」に武蔵の出生は揖東郡宮本村と
 記されている事によるものでここにも武蔵生誕の碑がある。

 武蔵は天生12年(1584年)生まれで土豪の新免氏(宇喜田秀家の家臣)に 仕えた家柄で、父親も兵法者(十手使いの名人)であり13歳のとき初めての決闘で相手を倒しその後流浪の生活を送り、17歳で関が原の戦いに西軍(宇喜田秀家の軍)に加わって戦った後、諸国を武者修業して腕を磨いた。
 21歳のとき吉岡一門と三回にわたる決闘をして名を挙げ、29歳のとき佐々木小次郎を倒し天下無敵の剣豪と言われたが、これ以降については記録に残るような生死を賭けた決闘はしておらず52歳のとき肥後・細川藩に仕官するまでの消息が定かでない。
 熊本で洞窟に籠り2年の歳月をかけ完成させた自書「五輪書」によると"生涯六十余度戦い一度も負けた事ない"と記されている。 武蔵は自省自戒の書・21箇条からなる「独行道」を記して62歳(1645年死亡)でその生涯を閉じた。

  <主な決闘の歴史>
●初めての決闘…有馬喜兵衛!.
 浪人・有馬喜兵衛は新当流の剣術遣いで諸国を武者修業中に武蔵の生地に立ち寄り「試合を望む者あれば相手をいたそう」と高札を立てた。 武蔵は当時13歳、手習いの帰りにこれを見た武蔵は持っていた墨でこの高札を黒々と塗りつぶし、自分の名前と住所を書いて「明日お相手いたそう」と書き残した。 翌日、試合場に現れた子供を見て有馬は「悪戯なら詫びれば許してやろう」と言ったが、武蔵は手にしていた六尺余りの棒で打ちかかり、隙をみて相手に組み付いて投げ飛ばし棒でめった打ちにして絶命させた。子供ながら武蔵は腕っぷしが強く、背丈は六尺余り(185cm)あったようだ。

●槍の宝蔵院との戦い!.
 宝蔵院は奈良・興福寺に40近くあった塔頭のひとつで、宝蔵院流・槍術は開祖・胤栄いんえいが十文字鎌槍を得意とする技をあみ出し「槍の宝蔵院」として知られ、多くの修行僧や武芸者達が槍術の鍛錬に訪れていたお寺(道場)である。 武蔵は胤栄に試合を申し出たが高齢のため高弟の奥蔵院と戦う事になったが、この時武蔵は長い槍に対しあえて短い木刀一本を手にして戦った。 槍と刀では槍の方が有利であるにも拘わらず、小太刀を片手にした武蔵の戦法に面食らった奥蔵院が槍を繰り出すと武蔵は体を開いてかわし、その槍をつかんで引き寄せ奥蔵院の動きを封じ一瞬でやっつけてしまった。

● 吉岡一門との決闘!
<吉岡清十郎との決闘>
 武蔵が一挙に有名をはせたのは、足利将軍家・剣道師範の名門・吉岡一門との決闘であった。
 この時武蔵は21歳になっていたが、当代随一と云われている吉岡流を破れば名声があがり世にでる好機と考え、当主の吉岡清十郎に挑戦状を送り京都の洛北蓮台野で決闘する事になった。
 武蔵は四時間近く遅れて果し合いの場所に現れ、遅刻をなじり怒り狂う真剣の吉岡清十郎に対し木刀でいきなり立ち向かい、あっという間に打ちすえてしまった。 清十郎は命こそ取り留めたが以後、出家して剣を捨てた。

<弟・吉岡伝七郎との決闘>
 清十郎の弟・吉岡伝七郎は武蔵に挑戦状を送り、京都・東山の三十三間堂で辰の刻(午前八時)に決闘と決まったが、武蔵が現れたのはまたも昼頃であり怒った伝七郎は五尺の大木刀で切りかかったが、身をかわした武蔵にその木刀を取られ脳天を割られて絶命した。

<吉岡門弟・百人との決闘>
 吉岡一門の門人達は尋常の勝負では武蔵を倒せないと思い、清十郎の嫡子・又七郎(17歳)を総大将にして百人近い門弟達が弓矢まで用意し一乗寺下り松で3度目の果し合いを行った。
 多数を相手にした戦いはこの時が初めてであり、従って今回ばかりは早めに果し合いの場所に出向いて地形や相手の出方を事前に良く調査し万全を期した。 吉岡一門は武蔵はまた遅れて昼頃に現れるだろうと思い油断していたら、いきなり総大将・又七郎の前に現われて恐れる又七郎を一撃で斬って動揺した門弟たちの追撃をかわしながら逃げ去った。
 この時武蔵は大勢の敵を相手にする対応策として田んぼの地形(あぜ道)を利用した。敵が大勢でも田んぼの中は泥状態であり、あぜ道なら1対1の戦いと同じ戦法で対戦できると考えた。
 幼い七之助を斬ったのは例え相手が幼少でも一門の総大将として決闘に参加しており、まず大将を倒す事が多数を相手にする場合の基本的な戦略と判断したからだ。

 武蔵の決闘の方法は、戦う相手によって武具を変えたり、時間をずらしてイライラさせたり、いつも敵の意表をつくという戦法はこの後の決闘においても存分に活用している。
 決闘は命をかけた戦いであり、勝つためにはあらゆる戦術を駆使した武蔵の戦法は、後に自書「五輪書」の中でも詳しく述べている。

●鎖鎌の達人・宍戸梅軒との決闘!
 吉岡一門との戦いの後、京を去って伊賀国に赴いたとき、鎖鎌の達人・宍戸梅軒と戦った。
 鎖鎌という独特の武器に対抗する手段として、この時初めて二刀を用いて戦った。 武蔵は初め大刀を構えていたが、相手が鎖の重りを投げて鎌を振り出した瞬間に小刀を投げつけ宍戸梅軒の胸板を貫いて倒した。武蔵は幼いときから兵法者であり十手使いの名人であった父・無二斎から十手使いの手ほどきを受けており、この戦いではその技を使ったと思われる。
 一説によるとこの試合が武蔵二刀流開眼のきっかけであったとされている。

●佐々木小次郎と巌流島での決闘!
 佐々木小次郎は越前生まれで幼少の頃から小太刀の達人・富田勢源に師事して腕を磨いた。
 師匠の小太刀の相手役として三尺余の長刀を使っている間に、長刀使いの名人となり巌流と名付け九州小倉藩主・細川家の剣道指南役となった。
 武蔵は細川藩家老の長岡佐渡興長と縁があり立ち寄った所、小次郎と決闘する事になり時は4月17日辰の上刻(午前7時)、場所は小倉と下関の間に浮かぶ舟島(巌流島)と決まったが、武蔵が現れたのは辰の刻(午前10時)頃であった。
 この時武蔵が使った武器は、舟を漕ぐ太い櫂を削って大太刀の木刀に仕上げたもので、小次郎の刃渡り三尺一寸の長刀をわずかに上回る自作の長い木刀であった。 待ちくたぶれた小次郎は武蔵が現れると剣を抜いて鞘を捨て武蔵めがけて切りかかると「小次郎破れたり、勝つ身ならなぜ鞘を捨てる!」と怒鳴って小次郎を心理的に動揺させた。
 小次郎は武蔵の眉間を狙ってするどく踏み込み真っ向から長刀を振り下ろしたが、一瞬早く切っ先をかわした武蔵は、左手一本で握った櫂を小次郎の頭上に振り下ろし脳天を打ち砕いた。
 小次郎は倒れながらも武蔵の足元を払うように刀を突き出したが、武蔵は飛び上がってこれを変わし小次郎の頭に数撃加えて絶命させた。
 小次郎の最初の一撃は武蔵のはちまきの結び目に触れており、二太刀目は武蔵の袴の裾を切り裂いていて文字どおり、紙一重の勝負であったとされている。
 武蔵の勝因は、小次郎の長刀より更に長い櫂を左手一本で振り下ろしたが、武器の長短の差が勝負の決め手となった。 後年武蔵は優れた絵画を数多く残しているが、その筆遣いから左ききだった事が明らかになっており、武蔵の二刀流も左ききだからこそ可能だったとされている。

*佐々木小次郎については武蔵以上に謎の多い人物で出生も諸説(越前・新潟、長門・山口県、豊前・大分県、)あり、一説には武蔵と決闘したときは18歳の美青年ではなく年齢も50歳を過ぎた醜男とも言われているが定かでない。
*「左きき」とスポーツ
 日本人の左ききは約一割だそうだ。右きき優先の人間社会では左ききは何かと不利であり不便でもあるが、スポーツの世界では少数派の左ききが圧倒的に有利なようだ。
 柔道・相撲・レスリングなどの格闘技やテニス、バトミントン・卓球、野球の世界でも名をなし活躍している選手は圧倒的に左ききが多い。
*因みに我が女房殿も左ききで、包丁や裁縫などは左右どちらでも使いこなせる技を持っている!

<熊本での武蔵>
 武蔵は晩年を熊本で過ごし生涯を終えている。 北九州の小倉藩主・二代目・細川忠興は武芸好きで巌流島での小次郎との決闘を観戦しており、その子である三代目・細川忠利が肥後・熊本藩主となっていたため、57歳のとき細川藩の客分(剣道指南役)として5年間を熊本で過ごし62歳でその生涯を閉じた。
 武蔵は有名な「五輪書」や「独行道」を残したため、一介の剣豪で終わることなく後に歴史的にも大きな評価を受ける一流の兵法者として大きな足跡を残す事になった。 武蔵が住んでいた家は熊本城の近く(旧・千葉城跡)で、現在はNHK熊本が建っている所にあった。

●各地にある武蔵のお墓と記念碑!
 武蔵のお墓は熊本から阿蘇へ行く国道沿い(現在の武蔵塚公園)にあるが、これは恩義を受けた細川家 藩主の参勤交代を見届けたいとする武蔵の遺言(遺体は甲冑姿)であったとされている。
 この武蔵塚公園には、武蔵の墓碑や「独行道」の碑、武蔵資料館などがあり「東の武蔵塚」と呼ばれて いる。
*当時、細川家の参勤交代の進路は、熊本市内から阿蘇を抜けて大分に出て、そこから船で大阪まで行き江戸に向かった。

 一方「西の武蔵塚」と呼ばれている武蔵の「供養塔」がJR熊本駅の裏側方向にある。 これは武蔵の弟子であった熊本藩士・寺尾信行の墓所内に安置されている大きな自然石で表面に武蔵の戒名である「玄信居士」と刻まれている。

 またこの近くに武蔵関係の美術品を多数所蔵する「島田美術館」があり、更にこの裏手の方向にある 「金峰山・きんぽうざん」のふもとに霊厳寺という禅寺があり、その裏手の岩窟が霊巌洞で武蔵はここに籠り2年の歳月をかけて「五輪書」を完成させた。
*因みに金峰山は、熊本五高の教師だった夏目漱石の作品「草枕」に登場する「峠の茶屋」が現在でも残っており、茶店として営業している。
*島田美術館…武蔵ゆかりの価値ある資料の保存で有名な個人美術館で、武蔵の自画像「二天一流」  や水墨画「枯山水」や「五輪書」、「独行道」、小次郎と戦った「櫂の木刀・レプリカ」など貴重な資料が たくさん展示されており、武蔵ファンなら必ず訪れる名所でもある。

 細川家の菩提寺・泰勝寺(現在は細川家の邸宅)の裏側にある「立田自然公園」には武蔵の供養塔とされ ている五輪塔が熊本で親しかった春山和尚のお墓と一緒に並んでいる。 泰勝寺には細川家の歴代藩主のお墓や細川ガラシャ夫人(二代目藩主・忠興の奥方で明知光秀の娘)のお墓などがある。
*ここには現在でも細川家(細川元総理・元熊本県知事)の私宅があります。

 また剣聖とまで言われた新陰流の開祖・上泉伊勢守の弟子で後にタイ捨流を興した達人・丸目蔵人は熊 本の南端にある都城・相良藩の剣道指南役となり、その後引退して熊本・人吉で百姓をしていたという 異人ですが、晩年に武蔵も訪問している。

●小倉にある武蔵の顕彰碑
 武蔵の二番目の養子となった宮本伊織は後に北九州の小倉城・小笠原藩・家老となったが、伊織が建てた武蔵の顕彰碑が、門司と小倉の中間にある手向山公園内に建っておりここから巌流島を見下ろす事ができる。この顕彰碑には漢文で吉岡一門や巌流島での戦いの事も記されており、武蔵の記録としては信頼度が高く歴史的にも貴重な遺跡として評価されている。

●姫路城と武蔵
 姫路城は一般的には池田輝政の城として知られていますが、江戸初期時代は家康の重臣で猛将として知られた本多平八郎忠勝とその息子 忠刻が城主となっていた。
 本田忠刻は家康の孫・千姫が秀頼亡き後2度目に嫁いだ城主であり、武蔵の最初の養子となった宮本造酒之助はこの忠刻の小姓となっていたが、忠刻が31歳で亡くなったとき殉死(切腹)し、円教寺(書写山)にある本田家の墓地に忠刻と一緒に葬されている。

 吉川英治の作品では武蔵が関ケ原の戦いの後、城主・池田輝政と親交のあった沢庵和尚の肝いりで 姫路城の天守閣に数年籠って書物に接し我が身を振り返る場面が描かれている…がこれは吉川英治の創作であり史実とは異なっている。
 また小説では一緒に故郷を出た「お通」が、城下はずれで武蔵を待ち続ける場面もありますが、お城の東部を流れる市川の新小川橋の近くには「お通さん」の銅像が建っている。
*沢庵和尚(大徳寺住職)は実在の名刹ですが、実際は武蔵との親交はなく、お通さんもまた吉川英治の創作の人物である。

<武蔵の功績>
●兵法・五輪書
 武蔵が究めた兵法(剣術)の奥義を記したもので、そのすべては人を斬り敵に勝つための技法と要諦を説いている書で、洞窟に籠り座禅を組みながら2年の歳月をかけて完成させた日本の兵法史上、屈指の書といえるもので「地の巻き、水の巻き、火の巻き、風の巻き、空の巻き」とある。
・地之巻…兵法の位置づけと二天一流の概要
・水之巻…剣術の原理とその展開
・火之巻…合戦の原理とその展開
・風之巻…他流試合と二天一流の合理性
・空之巻…究極の境地(空)
 これは仏教の五大五輪に習って構成し、その兵法観を「地水火風空」の活動に類比させながら論じた 「二天一流」の伝書であるが、残念ながら武蔵・直筆の五輪書は現存していない。 「五輪書」としてもっとも古いものは、武蔵からこれを授けられた弟子の寺尾孫之丞が写した写本が「永青文庫蔵」に保存されているが、島田美術館にもその写しが展示されている。
 平易な文章で分かりやすく合理的で理知的なこの「五輪書」は、武道やスポーツそして処世訓や経営戦略の参考として、時を超え現在でも多くの人に親しまれ読まれている。

●自戒の書・独行道
 武蔵は二十一箇条にわたる自省自戒の書「独行道」に書かれているように、人並みはずれた無欲・無心・清潔な生涯を送った孤高の剣豪であった。
 家も捨て、恋も捨て、美食も好まない、美術骨董にも興味はなく、財宝も所領も望まないし自分の生き方に後悔はしない…と言う自分に科した凄しい自戒の書である。

< 一条・世々の道にそむく事なし!
二条・身にたのしみをたくまず!
三条・よろずに依怙(えこ)の心なし!
四条・物毎にすき(数奇)をこのむ事なし!
五条・一生の間よくしん(欲心)思はず!
六条・我事において後悔をせず!
と続いており、以下主なもの…
・れんぼ(恋慕)の道思ひよるこころなし!
・身ひとつに美食をこのまず!
・私宅においてのぞむ心なし!
・末々代物なる古き道具所持せず!
・兵具は各別、余の道具たしまず!
・老身に財宝所領もちゆるこころなし!
など21箇条あり、人間の極限とも思える自ら定めた厳しい戒律をひたすら守って剣の道を励んできたようだ。 武蔵は禁欲を守り「恋慕の道思ひよるこころなし…」といっており、従って「お通さん」なる恋人は実在しない。吉川作品では女性ファンのために、ロマンをこめて創作したものと思われます。

*島田美術舘でこの書をご覧になった本田宗一郎さんが…
 「俺にはこの中の一つさえ守れねえなぁ!
  とても武蔵のマネはできねぇなぁ!
  武蔵はやはり凄い奴だ!」
 …と大変驚いたのも無理はない!

●優れた芸術家でもあった武蔵
 剣豪・武蔵には意外な一面があり、書画、木彫、金工などにも優れた才能を持った芸術家でもあった。絵は多くの禅画や鳥画を描き、布袋(ほてい)や達磨(だるま)、鳥獣図などがあり中でも鳥の絵は素人の余技とはとても思えないほどの定評がある。良く知られている「古木鳴鵙図・こぼくめいげきず」はなまじの画家でも描けない名作として知られているが、武蔵はまさしく文武両道を究めた稀有の人物であった。

 武蔵の剣の道に対する厳しい取り組みは、本田さんの妥協を許さなかった技術の道に通じるものがあり、己が信じた道をひたすら求めそして究めた二人は、晩年になって共に絵筆を楽しんだその姿に共通する生き方があったように感じます。
 剣術の天才…宮本武蔵と技術の天才…本田宗一郎は、いつの世まで親しみを持って語り継がれる偉大なる真の勇者であると思います。

<日本兵法(剣術)について>
 日本兵法(剣術)は室町時代末期に二つの大きな流派が起こり、剣術の形式(○○流)が定まったようで, その後多くの流派が誕生する事になった。

●京・八流…仏教系
 素性不肖の鬼一法眼(きいちほうげん)から京都・鞍馬山の八人の法師によって伝えられ「京流」と名乗ったもので、源義経が牛若丸と名乗っていた頃に習ったのがこの流派であり、武蔵が破った吉岡一門もこの流派の流れと言われている。

●東国・七流…神道系
 鹿島・香取神宮の社人七人が広めた流派で「神道流」の呼称で広まった。 剣術の名人とし名高い塚原伝もここの社人出身のの人であり、剣聖と言われた上泉伊勢守もここで修行している。

 古代のお寺や神社は政治・軍事の中心であり、自衛のために社人や僧徒が武芸の鍛錬をしており武芸者の育成道場のような役割を担っていた。 室町時代から戦国時代にかけこの二つの流派(京八流、東国七流)を中心にして、剣術の三大流派(中条流、陰流、神童流)が生まれ、そこから更に多くの流派が誕生していった。
 以下は名を残した主な流派を紹介します。

●中条流…兵庫助長秀
 足利幕府の名医だった中条家には刺撃の秘法が伝承され兵庫助長秀はその達人で「中条流」は世に広まり、越前の守護だった朝倉家(信長に滅ぼされた)の擁護受け名族・富田氏に伝わり、後に「富田流」となって多くの達人が世に出た。
*富田流…富田五郎左衛門勢源
 冨田流の中興の祖・勢源は剣術における終局の目的は「無刀」にありと言って、自らの刀を次第に短くし小太刀の名人となって名を挙げた。この勢源の弟子の一人が佐々木小次郎であり長い刀で師匠の小太刀の相手をしている間に長刀使いの名人となって後に巌流と名付けた。俗に言う「燕返し」とは飛ぶ燕も一刀で斬り落とすという中条流の鋭い返し技の事である。

*一刀流…伊東一刀斎影久
 越前の中条流が富田氏によって加賀(前田家)に伝わり、後にここから一刀流の名人・伊東一刀斎が生まれ、更に小野派一刀流(小野次郎右衛門忠常)へと伝承され忠常は徳川家康・秀忠にも仕えた。
*余談でありますが、この一刀斎の師匠が講談で有名な「剣豪・諸岡一羽斎」であり、我が諸岡家の先祖(?)の一人かも知れません…!
 中条流には、後年になって北辰一刀流(町道場・玄武舘)を興した千葉周作や幕末の志士・桂小五郎、高杉晋作、幕臣・山岡鉄舟などがいる。

●神道流…松本備前守正信
*新当流…塚原卜伝ぼくでん
 鹿島・香取神社の社人で日本一の達人として全国に名を知られた剣術家で父親は鹿島神道流の伝承者であり、塚原卜伝は松本備前守から鹿島新陰流を授けられ後に自らの流派・新当流を設立し足利将軍家の指南役ともなった。卜伝はとてつもない剣術の達人者で真剣試合を19回やって一度も負けなかった。また生涯で三度(壮年、中年、老年)諸国を回って旅をしたようですが、三度目のときは弟子100人を連れて威風堂々の旅をした強者だった。
 卜伝の有名な「一ノ太刀」と称する秘伝の太刀は誰も防ぐ者がいなかった。

示現流じげんりゅう…東郷藤兵衛重位
 薩摩・島津家の剣道指南役だった藤兵衛は神道流とタイ捨流(丸目蔵人)を合わせて示現流を興した。この流儀は、剣を上段に構えて気合(チェスト)もろとも相手のふところに飛び込んで打ち下ろし一撃で相手を倒すと言う誠に豪快な実践的剣術である。
 西南戦争の時、田原坂の戦場で鉄砲の弾が無くなった薩摩軍が官軍の鉄砲隊を相手に切り込んで善戦したが、一撃で相手を倒す薩摩の示現流に官軍兵士は恐れをなして苦戦した。

●陰流…愛州移香斎久忠あいす いこうさい
 伊勢出身の剣の達人で剣の奥義を悟るため鹿島の鵜戸明神の岩窟に篭って鍛錬し、見えざる相手を察して勝つと言う意味から「陰流」を生み出したと言われている。
*新陰流…上泉伊勢守信綱
 伊勢守は上州・大胡城の城主であったが武田信玄に滅ぼされて落城し、信玄から仕官を勧められたが断り兵法の道を選んで腕を磨いた。また鹿島の神道でも修行しその後、愛州移香斎の陰流を伝承して拡大発展させたのが有名な新陰流である。
 伊勢守は後に将軍家や西国大名の兵法指南者となりその名を挙げた。 また槍で有名な奈良の宝蔵院を訪ねたとき、奈良の柳生庄から修業に来ていた柳生宗厳(石舟斎)と出会い剣術の指導をした所、非凡な柳生の才能を見つけて「新陰流」の極意を授けた。
 これが後に徳川家康に認められ将軍家の剣道指南役となり一世を風靡する「柳生新陰流」の誕生となって全国に知れ渡り、師である上泉伊勢守は「剣聖」と呼ばれるようになった。

*タイ捨流…丸目蔵人
 熊本出身で上泉伊勢守の弟子となり新陰流の達人であったが、後にタイ捨流を興し九州地域で活躍した剣豪で、後に熊本都城・相良家の剣道指南役となったが、老後は引退して田舎(人吉)で田畑を耕す農民となった異色の剣豪である。

*柳生新陰流…柳生宗厳(石舟斎)・宗矩・十兵衛
 柳生一族は大和国(奈良県)の小さな一豪族で、戦国時代は近在の三好義継、筒井順慶、松永久秀などに属しながらかろうじて生き残って来た豪族である。
 柳生親子・宗厳(66歳)、宗矩(24歳)は、当時太閤秀吉の番頭格であった徳川家康から「伝え聞く無刀取りの秘伝を見たい…」との申し出があり、宗矩が披露した事が縁となって家康の知遇を得た。
 後に家康が天下を取ったあと宗矩は将軍家指南役として召抱えられ、家康・秀忠・家光と三代に亘って兵法指南役を勤め脚光を浴びたが、単なる剣術だけではなく将軍家側用人として政治的顧問の役割まで担うようになり「柳生新陰流」は天下の兵法となった。
 また宗矩は大徳寺(臨済宗)の名僧・沢庵と親交があり、参禅して剣術の奥義を悟り沢庵から与えられた「不動智神妙録」の禅理を基に「柳生流兵法」を完成させたと言われている。
*伊賀上野の仇討ちで36人斬りをした事で有名な荒木又右衛門は伊賀国(三重県伊賀上野)で生まれ父は藤堂家の家臣(服部性)だったが12歳の時上総国・郡山藩・家臣の家に養子となり荒木性を名乗った。又右衛門は柳生十兵衛から新陰流を習った剣の達人であった。

<結び>
 このように室町時代〜江戸時代にかけて多くの剣豪が生まれいろいろな流派を興したが、宮本武蔵は「五輪書」の冒頭には「万事において我に師匠なし」と記しており、「独行道」にあるように自らの厳しい鍛錬と創意工夫そして不屈の精神力で修行し剣の道を究めた孤高の剣豪であった。

 NHK大河ドラマ「武蔵」は吉川英治の作品を原点に演出されておりますが(吉川作品では巌流島の決闘を最後に完結している)今度のNHK大河ドラマでは視聴者のために謎とされている"その後の武蔵"についても映画やTVでは初めて演出しているようなので、大変楽しみであります。
 吉川武蔵はあくまでも小説であり登場人物などは史実とかなり異なっていますが、とにかく武蔵なる人物は晩年を熊本で過ごし多くの足跡と資料を残している以外は殆ど正確な資料がなく謎多き人物でありますが、謎が多い分だけ又面白味があるのかも知れません!

 私自身は命を懸けて決闘している強い武蔵よりは、絵筆を持って五輪書や絵画を書いていた晩年の枯れた姿や心やさしい老いた武蔵の姿になぜか惹かれるものがあります。

 NHK大河ドラマの影響で、来年は武蔵ゆかりの地域で「武蔵ブーム」になると思われますが、中でも 史実としての資料が多く残されている熊本での「武蔵ツアー」を皆様にお勧めします。 もし熊本に行くチャンスがありましたら、私の作成したこの資料を参考にされ武蔵の足跡をぜひ尋ねて下さい。

 関東地域の方は東京・青梅にある「吉川英治・記念館」へ行くと、武蔵の資料がたくさん展示されているのでここでも武蔵への理解が深まると思います。

 ご愛読ありがとうございました。

記:諸岡 忠至(2002-1-5)