元禄”忠臣蔵”赤穂47士の秘話
● 吉良邸討ち入り(元禄15年12月14日 午前4時〜6時)
* 時は 元禄15年(1702年)12月14日、前夜の大雪で江戸の町は一面の雪景色で空はカラリと晴れていた。大石内蔵助良雄(45)は、この日の討ち入りの集合時間を夜半の丑の刻(午前2時)と決めていた。それは吉良家の茶会が終わり、客も帰って屋敷が寝静まる頃合いだからである。
* 大石内蔵助を始めとする47人の同志は三々五々、本所にある堀部安兵衛(34)宅に集まってきた。 そこにはすでに一党の武器や道具・装束がすでに用意されていた。
* こうして身支度を終えた一党は、思い思いに最後の溜まり場で吉良邸の裏にある前原伊助(40)・神崎与五郎(38)が共同で経営していた店(呉服屋)に 向かった。ここから浪士が吉良邸に進軍を開始したのは寅の刻(午前4時)前で、満月に近い月光の灯かりが足元の積雪を照らしていた…!
…とはお馴染みの講談"元禄・忠臣蔵"の口上であります!
このレポートは…
赤穂浪士に付いては昔からいろいろな説がありますが、私なりの視点と観点でより史実に近い秘話を中心にまとめ、平成10年12月14日、討ち入の日にあわせてE-mail仲間にmailで送信した資料であります。
<討ち入の状況>
* 戦闘時間
約2時間(午前4時頃〜6時頃まで)
* 死傷者
吉良方 死 者 16人
負傷者 20数人
赤穂方 負傷者 4人
(注)この夜、吉良方には婦女子を除き男子は100名ほどいたが、実際に
戦闘に参加し敢然として浪士に立ち向かったのはわずか20名
しかいなかった…!
* 赤穂浪士(47人)の年齢分布
何と全体の20%が50代以上である! !
10代… 2人 (主税16才、矢頭右衛門七18才)
20 代…15人 50 代… 4人
30 代…14人 60 代… 5人
40 代… 6人 70 代… 1人(堀部弥兵衛77才)
* 討ち入に参加した赤穂浪士の中には8組の親子がいた!
間喜兵衛(69)・十次郎(26)・新六郎(24)は父子3人が参加した
大石内蔵助(45)・主税(16) 、 堀部弥衛門(77)・安兵衛(34)
吉田忠左衛門(64)・沢右衛門(29)、 小野寺十内(61)・幸右衛門(28)
奥田孫太郎(57)・貞右衛門(26) 、 間瀬久太夫(63)・孫九郎(23)
村松喜兵衛(62)・三太夫(27)
(注)大高源吾(32)は小野寺幸右衛門(小野寺家の養子)の実兄である
* 戦いの武器
武器は各自が自由であったが、関ヶ原の合戦以来約100年が経過
しており、武士と云えども誰も実戦の経験が無かった。
従って突けば致命傷を負わせられる槍を60%の者が使用した。
(注)使用された槍は…素槍・平槍・鍵槍・大身槍・十文字槍など
* 老人パワーの活躍
吉田忠左衛門(64)、小野寺十内(61)、間喜兵衛(69)の3人の老士は、
裏門と長屋の警戒に当たっていたが、それぞれが得意の槍で3人
を倒した。
* 吉良上野介の最後
間十次郎(26)が炭小屋の中へ槍を突き入れ手応えがあり、竹林唯七(32)
が切り付け致命傷を与え笛を吹いて全員を呼んだ。最後は大石が小刀で
仕止め勝鬨を挙げた後、大石の命で最初に槍をつけた間十次郎が吉良の
首を刎ねた。赤穂方の死者はなく、実に1年9カ月に及ぶ辛酸労苦の
快挙であった。
* 堀部安兵衛(34)
最初に暗がりから襲い掛かった寝間着姿の武士を一太刀で切り伏せ
刃向かう敵を片っ端から撫で斬りし、同志の苦戦を見るとすばやく
駆けつけて助太刀するなど噂通りの剣客振りを発揮した。
* 不破数右衛門(34)
吉良方きっての使い手清水一学(24)と戦い数カ所に
手傷を受け苦戦したが、千葉三郎兵衛(51)・潮田又之丞(35)が助太刀
に入り一学が縁を踏み外して庭に落ちた所を三郎兵衛が槍を突いて
仕留めた。 数右衛門は元禄10年に主君長矩の勘気を受けて浪人の身
であったが大石に許され途中から仲間に加わった。
* 小林平八郎(43)
小林平八郎は吉良方の筆頭家老でなかなかの忠義の士で、討ち入当夜
も果敢に戦ったが力つき長屋付近で討たれた。
<47人目の義士・寺坂吉右衛門とは…>
* 寺坂(39)は同志中ただ一人の足軽での身分は低いが弓の名人で足軽頭の
吉田忠左衛門の門下で主に同志たちの連絡、使い走りをしていたが
討ち入後、泉岳寺へ向かう途中に密かに大石の特命を受け一党から
離脱させた。これは生き残って亡君ゆかりの人々や同志の遺族に
討ち入の始終を報告させるための大石の策略でもあった。
* 従って討ち入は47士であったが切腹した時は46人であった。
同志は寺坂を守る為、討ち入前夜に逃亡した…と嘘の証言していた。
寺坂はその後83才まで生きて、その間に討ち入の始末を記録した
"寺坂信幸筆記"は、義士研究の貴重な資料となった。
<忠君の士か、大罪人か>
* 討ち入後、赤穂浪士46人は討ち入後処分が決まるまで下記の4家に預かり
となったが 4家とも手厚くもてなした。
熊本藩主・細川家に大石内蔵助以下17人
松山藩主・松平家に大石主税ほか以下10人
長府藩主・毛利家に岡島十右衛門以下10人
岡崎藩主・水野家に間十次郎・矢頭右衛門ら9人
* 幕府の裁定は忠君の士か大罪人かで意見が分かれてなかなか裁定が
つかず、又庶民は圧倒的に赤穂浪士の味方となり、結局幕府は学者に
意見を問うた…。 林 大学(幕府の儒官・将軍綱吉の信任が厚く
重用された政治の御用学者)"かれら忠義の者どもを罰したならば今後、
天下に忠義は行なわれ なくなる…!" 赤穂浪士を最初に義士と呼んだのは林 大学であった。
荻生徂徠(将軍綱吉の側用人・柳沢吉保に仕えた政治顧問)
”法は天下の根本である。主の仇を報じたのは義ではあるが
私の論である…!"
"公儀の許しもなく騒動を起こした事は法において許されない…!"
* 最後は、荻生徂徠の意見が認められ切腹と裁定された。
又、同時に吉良家は没収となり、吉良左兵衛義周は諏訪安芸守にお預け
となった。 しかし、庶民は法よりも情の裁きを望んでいた。
<切腹の上意>
* 切腹の上意を申し渡したのは元禄16年2月4日の未の刻(午後2時) であつたが前夜には4家の計らいで内々浪士達には伝えられていた。
* 切腹は4家でそれぞれ午後4時から始まり午後5時に終わった。
<赤穂浪士・その後の家族>
* 父が罪を犯せば子も罪を免れないのが当時の掟(法律)であり、46士の
中には16人の子(男子)がいたが、この内15才以上の男子4人は元禄16年
に伊豆の大島に流された。又、15才以下の者は15才になると遠島に
なるが、僧侶になれば免れるので多くの者は15才になる前に出家した。
* 宝永6年(1709年)8月、5代将軍綱吉が死んで恩赦があり、遺児達は
天下晴れて罪を許され、これが契機となって忠義に殉じた義士の子と
云うので、諸家から召し抱えの口がかかるようになった。赤穂浪士が
本懐を遂げ切腹してから6年後の事である。
* 大石家の次男吉千代は仏弟子となったが恩赦の直前19才で病死したが、
三男大三郎は芸州の浅野本家に番頭(1500石…父の内蔵助と同等)
として迎えられ、大石家を再興した。
<吉良家のその後>
* 吉良家の当主義周は3年後に配流先の信州諏訪郡で21才の若さで
夭折し、ここで名門吉良家は断絶となった。
* 又、上野介の息子であった上杉綱憲は父(上野介)は殺され、
子(義周)は流罪になり、綱憲もまた義周より2年早く42才で没して
おり、誠に悲運な吉良家の末路となった。
●刃傷松の廊下事件は何故起こったか?
<背景>
* 元禄14年2月4日、江戸城本丸において播州赤穂(兵庫県赤穂市)
5万3000石の藩主浅野内匠頭長矩(35)は勅使饗応役(ご馳走役)を
命じられた事から、後に"忠臣蔵"といわれる事件がここから始まった。
(注)勅使とは…朝廷(天皇)の使い
* 幕府は毎年正月、京都の朝廷へ年賀の挨拶の為に、使者を上洛させて
参内させるのを慣例としていた。その返礼として朝廷からからの使者
(勅使)が江戸へ下向する
勅使は毎年3月11日に江戸に着いて、12日は
将軍に謁見し、13日は能楽観賞そして運命の日となった3月14日は将軍が
勅使に対し返礼するというのが幕府の年中行事となっていた。この頃の
将軍綱吉は絶対的な権力を誇示し、怒り狂って即刻切腹を命じた。
(注)この行事は5代将軍綱吉が朝廷との儀式を重んじて、年中行事の
一環として元禄7〜8年頃から定着させていた儀式でもあった。
* 勅使饗応役の責任者が高家筆頭の吉良上野介義央(60)で将軍名代
として年賀使を命ぜられていた。浅野内匠頭は老中小笠原長重より
"吉良殿の指導もと、粗相のないよう勤められよ"と口添えされていた。
* 35才の浅野内匠頭は18年前17才の時に饗応役を経験しており、
役目の内容についてはおおむね知ってはいたが、問題は接待費用の
捻出であり、心配したのは勅使饗応の費用であった。
(注)元禄時代は戦国の気風が消失して"我が世の春"を謳歌していた。
しかも貨幣経済が発達し、すべてが華美贅沢になっていた。
従って物価が高騰して相当なインフレとなっていたと思われる。
* 公家の生活は質素だが、江戸では贅沢したいという気持ちがあり、
いろいろ注文したり、饗応役の品定めも露骨にするため大名達は
精一杯の接待をしていた。
(注)饗応役担当は8万石以下の大名の役割であり、当時は約1000両ほど
かかっておりこの出費は小大名にとってはつらい出費であった
* 赤穂藩は塩田経営に力を注ぎ、良質な"赤穂塩"の製造で藩財政は潤って
いるように思われていたが、石高の割には家臣が多かったので財政は
決して楽ではなかった。
(注-1)9才で藩主となり内匠頭は自我の強い性格で藩の政治も
経済も重役に任せず、どんな細かな事でも自分で決定すると言う
タイプであった。
(注-2)出費の関係もあって気配りも押さえて、接待の見積りも
700両で提出したが、この見積りを見た上野介が激怒した
…と言われている。
(注-3)幕府の儀式・典礼をつかさどる上野介は、気位が高い
だけに内匠頭の勝手な見積りを公儀軽視、ひいては自分に対する
侮りと感じ60才の老齢だけに憎悪の感情が強くなったと思われる。
* 一方同じ接待役の伊達家では、藩主宗春がまだ20才の若さで始めての
体験であり、老臣たちが吉良家などの関係者に根回しをしていた。
<刃傷の伏線>
* 昔からいろいろと伝えられているが詳しい取り調べもなく、その日の
夕刻に内匠頭は切腹させられたので真相は今も分からないが…!
@ いじめ説
* 玄関の屏風を上野介の了解を経て墨絵にしたが縁起が悪いと叱責されて金屏風にした
* 勅使一行の休憩所(増上寺)の掃除は普通で良いと指示し、伊達家には
畳の新調を指示しており、それに気づいた浅野家では家臣の機転により
徹夜で畳替えをした。
* 当日の服装も正式の礼服である大紋と風折烏帽子であるのに異なる服装を指示した。
A 製塩説
* 江戸時代に最初に大規模な製塩業を開発したのは浅野家(祖父の時代)
であり、内匠頭の時代には改良を加えて赤穂の塩は全国的に名をしられていた。
* 吉良家では元禄初年に領地三州吉良(愛知県はず幡豆郡吉良町)
で製塩業を始めた。 しかし赤穂のように良い塩ができないので秘伝の
教えを乞うたが、拒絶された。
<吉良家と上杉家の関わり>
* 吉良家の禄高は4200石だが、幕府の儀式典礼をつかさどる役目の高家
であり筆頭の家柄。将軍家、紀伊徳川家、薩摩の島津家とも縁戚関係にある名門である。
* 米沢の上杉家(15万石)の第4代藩主綱憲は上野介の実子であり又、
吉良の妻富子は、第3代米沢藩主綱勝の実妹であり、更には綱憲の子
(義周)が吉良家の養子となり上野介が隠居した後は吉良家の当主
(吉良左平衛義周)となった。
* 本来なら実の父親を討たれた上杉家の藩主綱憲は当然烈火の如く怒って
赤穂浪士の討伐に出ようとしたが、上杉家きっての切れ者・江戸家老
色部又四郎は"謙信公以来の上杉家を潰すきか…!"と体を張って止め、
上杉家の安泰を図った。
● 編集後記
私は"義理人情"の世界がとても好きである。従って"赤穂義士"の大ファンある。
もし"46人の忠義の士が切腹を免れ、生き永らえて万一晩節を誤るような事があれば…"その名誉は大きく傷ついて、ここまで後世に感動を与え評価を受けただろうか?…と考えると武士道を立てて、作法通り切腹させた幕府の裁定はそれなりに正しかったかも知れません…!
私は大好きな"忠臣蔵"に関する書物は10冊以上持っていますが、あれから約300年経った今、改めて目を通して私なりの観点で分析し、余り知られていない出来事を中心に抜粋し編集してみました。
当時の暦は日付の変わり目は、夜明け(午前6時頃)が基本であるため元禄15月12月14日寅の刻(午前4時)は、現在に例えると12月15日の午前4時頃の討ち入となります。
記:諸岡 忠至(2002-12-14)
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