”たかが百名山””されど百名山”

 第一章 山との出会いから百名山へ

 ホンダへ入社する前、群馬の会社に勤め、そこの山岳部で裏妙義や谷川岳等をホームグランドにしながら山を楽しんでいました。たまたま私の兄が友達と八ヶ岳へ登って来て、その雄大な景色と山の素晴らしさを語ってくれ、是非登るように言われ、早速一人で縦走してその素晴らしさに感動、すっかり3000m級の山の虜になってしまいました。

 当時は給料も安く費用の捻出もままならず北アルプスなどは1年に一度行くのも大変でした。その後ホンダへ入社、週末にはマージャンや夜の巷への誘惑に惑わされ、純朴だった山男もすっかり夜の都会人へと変身し、その後35年も登山靴と無縁の生活でした。

 ホンダマンとしての卒業式も次第に近付いて定年後何をやろうか?と考え、色々やりたい事の一つに登山があり、杉山さんから「山登りをやるなら一緒に百名山をやりませんか」と誘って戴き、併せて東京野歩路会への入会もその後の百名山に役立ちました。

 群馬の時代に15山、定年間近から残り85山を足掛け7年で完登、今年になって残り8山、1山登るごとにゴールが近付き嬉しい反面、何故そんなに急ぐのか、来年に持ち越しても良いのではとセンチな心の葛藤が何度か起きた。

 10月5日快晴だ。朝4時半に我家を出発し群馬の実家へ寄り兄弟姉妹7名と合流。総勢9名で沼田ICから尾瀬戸倉へ。村営バスで鳩待峠へ。この辺りは紅葉真っ盛り、登山者達から感嘆の声々が山中に明るく響きわたっていた。
 目指す百番目の山は至仏山。全員無事に登頂。団体客で賑わう山頂で記念の横断幕を広げ記念撮影。居合わせた登山客から拍手や「凄い」のお祝いの言葉が飛び交い、「おお遂に俺も百名山をヤッター」と胸にじんと来るものを感じた。
 泊まりは水上の湯の小屋温泉。露天風呂で山の疲れをとり、宴席は山の話で盛り上がり、2次会も延々と夜半まで続いた。

 第二章 百名山余話

 <山 名
 ===○○富士===
 富士は日本一の山と言われるだけの事は有ってあちこちにあります。@最北端の利尻島の利尻富士 A北海道の羊蹄山が蝦夷富士 B青森の岩木山が津輕富士 C岩手山が南部富士 D鹿児島の開聞岳が薩摩富士

 ===駒ケ岳===
 疾駆する駒の姿の雪形が春に現れる山との説もある、駒ヶ岳にこだわって日本中の駒ヶ岳に登っている人も居るようです。@会津駒ヶ岳 A越後駒ヶ岳 B甲斐駒ヶ岳 C木會駒ヶ岳

 <緯度と温度
 気温は標高100m上がる毎に0.6℃下がると言われ高い山へ登る時の防寒の目安にして居ます。それに緯度の要素が入って来ると様変わり。富士山は3776mで1m掘るとツンドラ(永久凍土)が出て来るそうです。一方北海道の大雪山旭岳は2290mしかないが1m掘ればツンドラが出てくるそうです。
 緯度の影響が大きい。日本の紅葉は大雪山から始まる〈9月初旬)と言われているのもこれで納得。もう一つ九州本島南端から60km南の屋久島の宮之浦岳に登った時タクシーの運転手に聞いた「こんな南の島なら冬でも登山客は多いのですか?」「とんでもない冬は2mも雪が降り登山は出来ません」本州の豪雪地帯並みとは驚きました。

 <国 境
 大半の日本人は国境と言うものに関心が薄いのではないかと思われる。漁業関係者が200海里問題などで時々話題にしている程度。その昔の蒙古襲来が唯一の国境侵略ではないか。まして海なし県の埼玉に住んでいると外国や国境など本当に縁がない、しかし百名山に登って初めてこれを体験した。
 先ず北海道の知床半島の斜里岳・羅臼岳。此処に登ると手が届くほどの近さに国後択捉島があり何故これがロシア領なのか全く納得出来ない。又、九州鹿児島の霧島山の最高峰韓国岳(カラクニダケ)から良く晴れると国境の向こうに韓国が見える事からその名前が付いたと言われている。次に北海道最北端の山、利尻富士を下山して稚内へ向かう快晴のフエリーの中からオホーツク海遥か60km北に樺太の島々が望めたのには感激した。

 第三章 心に残る百名山

高山病の白馬
 私はどちらかと言うと体育会系の体質を持ったまま生きてこれたので百名山に登るのにもそれ程の苦労もせずに済んだが、家内は40kgに満たない体重しかなく虚弱体質の上一向に努力をしようとしない困ったお方なのですが景色の良い山や綺麗な高山植物を見ては大喜びをする単純な人種なのです。
 やさしそうな山を選んでは連れ出しコースタイムも少し少なめに言って安心させるが、その内に仲々着かないと気がつき、また騙されたとなる次第。楽をして景色が良く綺麗な花が咲いている山となるとなかなか難しい。
 そして遂に初の3000m白馬への挑戦を決めました。日本3大雪渓を登る事と、もちろん高山植物がいたる所に咲き乱れているコースを通り、日本で一番高い所にある白馬鑓温泉の露天風呂で山の疲れを取る目論見で、兄弟会のいつものメンバーで挑戦しました。
 大雪渓の登りが生憎のお天気で、時々パラパラと雨が落ちて気温も低い。体力の消耗が激しく、登り6時間はきつい。家内の足取りが重く、雪渓の上部にかかる頃には5歩歩いては腰をおろす程参ってしまった。とにかく小屋まで辿り着かなければと皆で励まし合いながら9時間かけてようやく小屋に辿り着いた。昭和医科大の診療所で見てもらったら風邪と高山病との事。解熱剤を貰いその夜ぐっすり休み、朝目が覚めたら昨日の病人が嘘の様。小屋の前から見える剣岳、立山黒部ダム、槍・穂高など北アルプスの山々を眺め歓喜の喜びに包まれた。勿論昨日は見向きする余裕もなかった高山植物を心行くまで愛でながら白馬鑓温泉に下り、どっぷりと露天風呂に浸かり、至福の一時を心行くまで味わった。メンバーが集まって何時も忘れられない山の話になると強烈だった白馬の思い出が話題になります。

雲取山の大往生
 雲取山は東京都の最高峰で秩父連山の盟主。勿論百名山である。秋の紅葉を眺めながら三峰神社から雲取へ向かって白岩山の東屋の休憩所に到着。先客2名に挨拶し休憩していると雲取の方からご高齢の女性が下りて来て私の隣に座られたので「良いお年のようですがよく頑張りますね」「主人に20年前先立たれガックリ落ち込んでしまい、これではいけないと一念奮起して毎年雲取に登ることにしました、今年で90歳になりましたが流石に雲取の登りはきつくなりました」私より30歳以上も年上ですごいなーと感心。俺はそこまで生きていないかも。「おばあちゃん気を付けて頑張ってね」の一言がこの世の別れの言葉になるとは。その夜雲取小屋に泊まり月曜日出社し昼、食堂のテレビで雲取に登ったオバーチャンが下山して来ないと報じていた。白岩で話をしたあのオバアチャンだ・・・。今にして思うと随分と影が薄かった。翌日沢の水辺で捜索隊によって発見された。この事故との遭遇により人それぞれの人生の終焉、卒業式、店仕舞いについて考えさせられた。
 我々の身の回りで起きている寝たきり老人、ボケ老人、植物人間、車椅子生活等の生活に入れば当然周りに迷惑をかけ、暗い苦しい茨の道が何処までも続いて行くのではないでしょうか? 勿論自分の人生一寸先は闇で判らないがこのオバアチャンの様に毎年雲取に登るんだと自分に言い聞かせそれが生き甲斐として90歳まで元気で登山靴を履いたままの大往生となったのは赤飯ものである。

 第四章 百番目が何故至仏山?

 百番の話の前に99番の話をしましょう。最初に述べた通り群馬からの事始で谷川岳が一番、山登りは遭難と言う危険が常に付いて廻っており帰宅するまで家内に心配を懸けていたのです。また百名山も北海道に9山、九州に6山、四国に2山、皆飛行機で出かける時代。従って軍資金の調達も年金生活者にとってはなかなか大 変。他にも勘定科目の違うゴルフやスキーにも配分しなければならず・・・・・。従って家内の理解と協力が絶対不可欠なのです。これらの難問を解決して支援してくれた妻は立派。高い妻で99番が高妻山である。
 いよいよ満願の至仏、百名山を通じて色々見たり聞いたり体験したり大きな自然の懐に抱かれて心が洗われ、また、ホンダマンの枠を飛び越え多くの山仲間が出来た。兄弟会の嫁婿の壁もなく大きな求心力を持った山を中心に人々の心の絆が一層強くなって来た様である。百名山と言う修行を通じて少しは人間として成長し 仏様に一歩でも近付ければとの願いを込め至仏を最後の山と決めました。
 最後に「山は足で登るものではなく心で登るもの」
 皆さん色々有難う御座いました。

記:森山 精也(2002-10-05)