所沢の町

 私の成熟期を過ごした所沢は、埼玉県の南東部に位置し東京のベットタウンといわれて発展してきた。東京の北部の、東村山市、清瀬市、東大和市などに隣接する。鉄道は西武池袋、及び新宿線がまじわり、JRでは武蔵野西線が走っている。西武系企業色の強い町といってよい。その町に昭和41年2月から住みついた。東京からなだれ込んできた、一般的な住民は東京では家が持てないから、埼玉でも東京に近いところに家を持とうとした。埼玉で家を持ち勤めは東京である、だから埼玉県人としての意識が薄い。寝るだけに埼玉県に帰ってくるという意識で、自分は東京人と思っている人たちが所沢には沢山住んでいる。私たちもその例にもれなかった。その一番の表れは、新聞のとりかただ、埼玉新聞という地方紙をとる人は少ない。三大新聞といわれる新聞や、東京新聞をとっている。

 しかし、30年以上も住んでいると自然と愛着みたいなものが沸いてくるものである。いまでは、「わがふるさと」という気がしている。 その現われは、高校野球のときに表面化する、応援する高校がやはり「ふるさとの高校」ということになるからだ。

 いま、所沢の町も大きく変貌している。町の中心部には、何十階建てかのマンションが林立し、ますます東京的所沢住民が増えたように思える。その反面、「米軍基地」が返還されたあとには、「航空記念公園」ができ、広い道路も整備され、市役所や警察、税務署などが、まとまって移設され大変便利になってきた。所沢は航空の発祥の地といわれている、古くは日本軍隊の陸軍の飛行場があって、そういわれているらしい。特に「航空記念公園」は広大な敷地に、アミューズ館や、ゼロ戦を飾ってある航空記念館があり、花壇、芝生、噴水なども整備されて休日には、家族連れなどで大賑わいする。ただ、駐車場が少なく、周辺の道路は大渋滞となることが、近くに住む住民を悩ます。

 所沢のわが家は、この公園の東側に隣接する。公園はわが家の庭のようになり環境は大変よくなった。公園内には一周2kmのトリムコースがあり、家に戻ったときにはここで三周のジョギングをするのが常である。

 そんな所沢に、孫の成長を確かめに戻ってきた。三日間の滞在である。浜松からは、東名を走り厚木ICで降り、八王子を経由して所沢というコースが、速く安価に行ける。 所沢のわが家には、長男家族四人と三男が住んでいる。長男には二人の子供がいる。中学一年生と小学三年生だ、中学の孫がメールをくれる。私の一番若いメール友だ。ただし、メールをよこす時は、たいがいおねだりのときだ。「じいじい。チョー欲しいものがあるんだー。」ではじまった、「普段、なんでもないのに買ってもらうのは、なんだから誕生日のプレゼントということで・・・。欲しいのは自転車なんだー!」というもの。 11月20日が13回目の誕生日を迎える。こんなメールを孫からもらうと、もうメロメロになってしまう。

 所沢の家につくと、その孫がすぐに飛んでくる。「自転車みにいこう!」、「もう決まっているのか?自転車は、いくらなんだ!」私には金額が問題だった。「まだ決まっていない」と孫がいうと、母親がすかさず 「真緒(マオ)、ダメじゃない。じいじいに買ってもらうのに、決めていないなんて」ちゃんと決めておかなくてはいけない、ということだ。私もそう思った、買ってもらうのに決めていないなんて、と思ったが、友達の自転車をいろいろみていると目移りして、どれがいいのか決めかねているらしい。「じゃあ、マオ。自転車みにいこう」と私が言い、自転車を見に行くことになった。嫁の運転による軽自動車で近くのホームセンターへ、そこで自転車を見るが気に入ったのがない。もう一個所ホームセンターへ、そこでまあまあ気に入った自転車があった。 アップハンドルの水色だ、籠がかわいらしいという。私には、そのかわいらしさがよくわからない、どれも同じにみえる。孫がかわいくていいというのだから、じいさんが、とやかく言うことではないのでだまっていた。

 その自転車に乗って孫はひとりで約3kmの道を家に帰っていった。私と嫁は大渋滞の道路を家に向かった、孫はとっくに家に着いていた。嫁と私は結構、気が合う、気安く話しをする。基本的な価値観が一致するからだろう、「質素な生活」をしているからだ、「贅沢好き」は私の価値観に合わない。

 次の日、この嫁と隣の市まで衣料品の買出しに出掛けた。80〜50%OFFという超デスカウント店だ。しっかり主婦をしているな、という感じでいじらしささえ感じる。子供のパンツなど一枚50円だ、これならガソリン代をかけても価値があると、変に感心したりした。私もジーパンが安かったので買ってきた、一枚780円だった。

 午後は二男一家が一番小さな孫を連れてくるという。それでは、いつものようにすし屋に行こうということになった。 20年以上も付き合っているすし屋だ、「みまつ寿司」という。 20年前は景気もよく、かなり手広くやって活気もあった、夫婦でやっていて、美人のママが評判だった。私もそのママにつられて行き付けになったようなものだ、しかしいまでは二人でやっていても人がこないという。ママといわれる奥さんも働きにでているという。飲食業の厳しさが伝わってくる。

 ここでは、最近、佐々木ファミリーといわれている。子供や孫と一緒に大勢でくるからだ。でも、安く飲んで食べさせてくれる。普通のすし屋さんで飲食するような大金はいらない。そうでもなければ、タクシーに乗ってまでここまでは来ない。いつも私は、徒歩と電車だが。 この店の家族とは、よくキャンプや旅行などにでかけた。いまは子供たちが大きくなり、環境も違ってきたので、私が所沢に帰ってきたときに店にお邪魔するくらいである。

 いつもは、ひとり娘の一家もくるのだが、今回は「明日から由真(ユマ)が修学旅行なので、朝が早いからまた今度ご馳走になる」 といって、電話をきった。そうか、ユマも来年から中学生か、孫の成長は早いものだ、体格もりっぱな女性になっている。娘は所沢からは、くるまで1時間ぐらいのところの坂戸市に住んでいて、美容室をやっている。やっているといってもひとりきりでである、ひとは使っていない。半分趣味みたいなもので、楽しんでやっている。家を改築して、一階を美容室にしたのだ。 二階が住まいになっていて、同じ敷地に亭主の両親が住んでいる。自分たちの最初の家はその両親が建ててくれたが、改築の費用は自分たちで工面した、りっぱなものだ。しかし、どうしても工面がつかないところを、どうにかならないか、という相談を私にもちかけてきた。費用を貸してくれというものだった「私は貸すのだったら、いいよ」「貸すといっても、私たちの年金を解約して工面するんだから、年金のつもりで毎月私たちに返却するんだよ」ということを条件に、娘たちに工面した。

 お金のことは親子でも、キチンとするというのが私の主義なので、そのことは娘もよく理解していたようだ。「もちろん、貸してもらえるだけで、ありがたいです。貸してもらえなければ私の夢が、消えちゃうもん」といって、改築の工事を発注した。娘といえども私との間に、「覚書」も連名で署名して作ってある。そこまでやるか、とおもうむきもあるかと思われるが、後になって「貸したの、貰ったの」で、思わぬトラブルとなり、親子の間にも亀裂が生じるということを危惧するからである。いまでは、近所のおばさん連中の評判もいいようで、キチンと年金は私たちのもとに入ってきている。私たちは「のりこ生命」と呼んでいる、13年間の生命保険だ、破綻のないように「美容室」をしっかりやってもらわなくては。娘の名は、典子である。なんといっても、このようなひとり娘が一番かわいいのである。

 10月23日、月曜日の朝10時に所沢を出発した。もう少し早く出ようとしたが、嫁が「銀行に行きたいが足がないので、おじいさん銀行に行ってくれない!」というのだ。嫁の軽自動車は雨なので、三男に貸してしまったというのだ、仕方がない、かわいい嫁だと思い、行ってあげることにした。用事はすぐにすんだ。私のくるまで、私の運転で行った。嫁、曰く「おじいさんの運転、若々しく、キビキビしているね」。そのまま受け取ってはいけないようだ、別の意味も込められていそうだ。たぶん、黄色の信号でも通過してしまうことがあるからだろう。 そう思い、嫁の注意と受け止め、心しよう。

 雨の中を八王子に国道16号線で、向かう。月曜日で雨のせいか道は混んでいた。いつも混むところは決まっている。そんなところで私はじっとしていられない、すぐわき道や迂回路を探す。渋滞で待っているより、同じ時間でも走っているほうがいい。こんな時、私の性格がでるようだ。ある研修会の席で私の印象をズバリ言い当てた人がいた。「意外と、せっかち」と言われた、なるほどと思った。「意外と」というのは、おっとりとみえるのかもしれない。そんなことで渋滞もするりとぬけて、八王子ICで中央高速へ、しかしすぐ相模湖ICで降りる。これから道志川沿いの山道を山中湖へ向かう、中央高速を河口湖ICに行けば早いのだが、高速料金の節約と山道の景色を楽しむためだ。でも今日は雨、節約が主か。

 東名の利用は最小限にしようと考えていた。今日からまた、集中工事がはじまる。山中湖から、本栖湖に出て、下部温泉、身延にでて国道52号線で富士川にそって清水にでるコースをあらかじめ考えていた。7時間はかかるだろうとふんだ、何回か通ったことのあるコースである。天気さえよければ富士山を眺めながらの快適なドライブが楽しめる、でも今日は雨だから、女房となにか話しながら行くしかない。道端の草花を眺めては、あれは何の花、何の木と問答をしながら、あまり退屈はしない。女房が地図を読めると助かるのだが、地図をみてもらうとすぐ喧嘩になる。「いま、どこを走っている?」と聞くと、決まって「よくわからない、この辺かな?」と曖昧な返事が返ってくる。「いま走っているところが分からないなら、みなくていい」とこんな風である。だから地図は自分で、止まってみることにしている。近頃こんな本が出回っている、<話しを聞かない男、地図を読めない女> そのものずばりである。しかし、女房は、私の決めたコースに文句をいわずについてきてくれる、それがとり得である。

 相模湖から山道を約40分、青根、という部落につく、ここは「丹沢の山塊を縦走」する登山者の終着となる、バス停があり、厚木駅に行くバスがある。雨なのに3人ばかりの登山姿の人がバス停でバスを待っていた。私の二十代のなかばに、この「丹沢縦走」を何回か経験しているので、ここを通る時、懐かしさが思い出される。 さらに道志川をさかのぼると「道志道の駅」がある、山間のせいか肌寒い、ジャンパーを着る。ここで昼食とした。ふるさとの味という看板が目についたので「クレソンうどん」を食べた、特別おいしいとは思わなかったが、クレソンの香りがよかった。

 女房はキュウリの漬物や野菜を買っていた。ここからか山伏峠の登りになる、頂上付近はやや紅葉が始まっていた。ウルシだろうか、赤く色づいた葉がめにつく。ここからは、山中湖に向かって一直線の下りだ。山中湖の水面は灰色で鈍い色合いで、日の光があたった青い水面とは大違いだった、こんな山中湖をみるのははじめてだ。ところどころに「どうだんつつじ」が赤く色づいていてきれいなところがあった。 天気だったら、もっときれいにみえるのに、と思いながら通りすぎた。

 河口湖、西湖を過ぎ、青木が原の樹海を走る。この辺は紅葉のときは、紅葉のトンネルとなり見事なものである。10日ぐらいはやいだろうか。 ここをすぎたところで突然前のトラックが止まった、トラックが多かった。 東名の集中工事の影響がここにもでているのかと思ったりもした。1時間近くものろのろである、ひょっとしたら工事で片側通行か、状況がまったくつかめない。 やっと、前方に人影が見えたとおもったら、事故らしい。トラック同士が正面衝突をしていて、両方のトラックの前部が大破していた。それで、道路をふさぎ通行するトラックは歩道を利用して、やっと通れるスペースが確保されていた、トラックや乗用車は最徐行ですり抜けていたので、それで時間がかかったのだ。危ない、危ない、気をつけて運転しなければ、と気を引き締めてここを通り過ぎた。

 ここからは、清水のICまでは渋滞もなく順調に走ってきた。東名は清水ICに入るとすぐに渋滞となった、浜松まではいつもの3倍の時間がかかったろうか。でも、所沢から8時間かかったが、無事着くことができた。

 やはり浜松に着くと、ホットする。 まず、くるまの渋滞が少ない、住みよい町だと思う。

記:佐々木 武(2000-10-24)