ヨーロッパ旅行記フランス編 (2000-6-2〜6-5)
ジュネーブからTGVに乗り、フランスのリヨンまでの列車の旅である。 われわれも、コーヒーを注文してみた、中年のひげをはやした制服をきたおじさんが、にこにこして紙のコーヒーカップを2個両手にかざしている。なんのことかよく分からなかったが、両手のカップは大小、大きさが違っていた。大きいカップ、それとも小さいコップ、という意味らしい。私は小さいカップを指さした。おじさんはさらににこにこして、わかった、わかったと、いうようにうなずいていた。後で分かったことだが、大きいカップも小さいカップも値段は同じなのだそうだ。分かっていれば、大きいカップにしたのに、とちょっぴり悔やまれた。ここにも貧乏性の根性がでてしまったか。 リヨン駅からは、パリの街中はすぐそこだ。バスで街中を走りセーヌ河ぞいの、ノートルダム大聖堂で記念写真を撮る。これから、セーヌ河クルーズだ。天気もよいせいか大勢の観光客が乗船していた。例によって、上半身はだかの人たちが目についた。船が動き出してすぐ、アレクサンダー3世の橋をくぐる。橋の両側には馬にまたがった騎士の像が金 色にかがやいてたっている。橋の欄干には沢山の兵士の像が整然と並んでいる。本当に古いものを現代のものとうまくマッチングさせて、残している。街の中はすべてそうだ、ビルにしても高層ビルはない、4・5階どまりだ、そのビルの外壁にもいたるところに、騎士のような、なにかの像が飾られている。もちろん電信柱などはない、すごくすっきりしている。 船は、右にルーブル美術館を左の先には、さっきのノートルダム大聖堂をみながら、さらにすすみ、大聖堂を少しすぎたところでユーターンをし、スタート地点をすぎ今度は、エッフェル塔の方角に向かう。エッフェル塔を少しすぎてまたユーターンだ、そしてスタート地点で下船した。昼食は、パリで久しぶりの日本食だという。せっかくパリにきたのだから、パリのおいしいものが食べたかった。日本食は、日本で食べられる。 パリの日本食屋は狭かった、ツアー客はそこに押し込められた。でてきた料理は、ごくあたりまえの焼き鮭、刺身、煮物、お新香、味噌汁、ご飯だった。日本だったら、料理とはいえない、朝食みたいなものだ。しかし、おいしかった。鮭やご飯がこんなにもおいしいものかと、あっという間にすべてたいらげた。私だけが、おいしいのかと思ったが、ツアー客の大半がおいしいといっていたから、やはり本当においしかったのだろう。 午後は、ルーブル美術館の見学だという。あまり美術館には関心のなかった私は、それほど期待もしていなかった。美術館ということと、限られた短い時間での見学ということもあってだろう、専門のガイドがついた。日本人の男性だった、彼は非常に手際がよかった、「皆さん、限られた時間です、要所だけを効率よく観ましょう。歩くのも速いかもしれませんが、ついてきてください」こういって、どんどん館内を進んでいった。要所、要所の彫刻や絵画の前では、分かりよく説明してくれていた。絵画などに興味のない私にも、なるほどとうなずけるような説明だった、これがプロの説明だと感心した。 特に印象に残っている、絵画は遭難した、"いかだ"で20人ほどの人が漂流していて、一番左のひとはすでに息が絶えている、その右の人は苦しさに息も絶え絶えだ、一番右の人が最も元気で右手の曇り空に向かって両手を大きく差し伸べている。このような情景を3m四方の壁に展示されていた。 この絵画の説明は、「人間はいつでも希望をもち生きていかねばならない」ということを表現しているという。一番左のひとは死んでいるが、右側のひとは生きている、その右のひとはさらに元気だ。そうして右にいくにしたがって元気になっていく、人間が生きようという姿を右上がりに表現しているのだという。テオドール・ジェリコ作の、「メドウサの筏」だそうだ。 あの有名な、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」も展示されていた。「モナリザ」は頭にベールをかぶっているのだと、はじめてきかされた、よくよく見ると本当だ、おでこに黒い線が見える、これがベールだとは知らなかった。私だけだろうか。絵の大きさは、比較的小さく、1m四方もあっただろうか。さすがに黒山の人だかりだ。絵画保存のためカメラのフラッシュは禁止されているが、ここにも無法者はいるものだ。ルーブル美術館を出たのは、閉館まぎはの5時だった。 今日の観光はこれで終わりだ。ホテルに入ってゆっくり休もう。ホテルは、凱旋門をぬけて、パリ外周高速道路を少し越えた、ラ・デフェンスというビジネス街のようなところだときいている。ホテルの部屋は7階だった。やはりエレベーターに表示がない、エレベーターは3基あるのだが、それらが、いまどの階にいるのかが分からない。まったく閉口してしまう。さあ、午後9時だ、早いけどシャワーでも浴びて寝ることとしようか、外はまだ明るいが。
7日目、今日はベルサイユ宮殿の観光で、午後は自由行動の日だ。
ここで、ベルサイユをあとにして、再びパリに戻る。
明日は一日自由行動だから、パリの街を存分に散策しよう。 そこから、しばらく歩いたが大きな通りに出ることができない。ここは、下町なのか肉屋、八百屋だとか小さな商店が並んだ町だ。小さな果物屋があった、赤いサクランボがおいしそうだったので、買うことにした。けっこう沢山ある、ふたりで食べきれるだろうか。ついでに、店員に道を聞こうと地図を出し、ここはどこか聞いてみたが、しばらく地図をみていたが、よくわからないらしい、ほかの店員にも聞いていたが、らちがあかない、道を聞くのをあきらめた。しばらく歩いて、比較的広い通りに出た。ここならタクシーも拾えるだろうと思った。案の定、タクシーが2台止まっていた。これに乗ろうと思い、タクシーのドアーの前に立つと運転手が乗っていなかった。近くにいるのかと、周りを見渡したが運転手がいる気配はなかった。ずいぶんと、のんびりしたものだ。しかたがない、もう少し歩いてみるか、そうしていると1台のタクシーが通りかかった、すかさず手を上げると、日本と同じようにとまってくれた。ひとまず、よかった。ホテル名と場所を告げると、わかった乗りなさいと合図してくれた、ますますよかった。ホテルからもらってきた地図入りののパンフレットを渡すと、これはありがたい、これならよく分かるといっている風だった。道は混雑していた、運転手は回り道をして高速道路を利用したい、といっているようなので、うなずいた。けっこう言葉は通じなくとも、なんとか、こちら、あちらの意思は通じるものだと妙に感心した。 ホテルのそばまできて、ちょっと道を間違えたりしたが、なんとかホテルにたどり着いた。午後8時だった、まだ真昼のように明るい、太陽もさんさんと照っている。それにしても、パリのタクシーは安いようだ。それよりも、日本のタクシーが高すぎるのか。130フランスフランだった、1フランは16円ぐらいだから、円換算2000円弱だ。10km以上の距離を30分以上かけてである。ホテルに帰ってきて、さっき歩いてきた道がどこだったか、どうも納得がいかないのだ、冷静になって地図をながめているうちに、どうも目標にしていた方角とは反対の方に歩いていったようだ、そうするとサクランボを買った果物屋だとか、下町風のところとか、つじつまがあうのである。目標にしていたのは、ル−ブル美術館から凱旋門をむすぶ大通りがある、途中にはシャンゼリゼ通りもある。この大通りにでるつもりで歩いたが、反対方向に歩いていては大通りにでるはずもない。でも、これで納得である、どこをどう歩いて、どのへんでタクシーに乗り、どこをタクシーが通ってホテルまで帰ってきたのか、わからないと気持ちが悪くてしかたがない。これですっきりした。
8日目、今日は一日中自由行動だ。 街の中もゴミなどもなく、清潔だった。話しによると、パリ市民の4人に1人は公務員だときいた。そういえば、市の清掃車がひっきりなしに行き交っていた。また、街角のいたるところにトイレボックスが見かけられた。日本の電話ボックスみたいな形だ、小銭を入れて利用する。われわれは、緊急事態にならないかぎり利用することは、ためらわれた。小銭を入れて入ったはいいが、本当に出てこられるのだろうか、という心配があった。 オペラ座から、再びルーブル美術館に戻り、ここから凱旋門の方に散策することにした。ここから、シャンゼリゼまでは、中央部が公園になっていて幅100mほどはあるだろうか、花壇があったり、噴水やベンチなどもあり、くつろいだり、散策するには絶好な場所だ。その両側がくるまの通りなのだ。途中にコンコルド広場などがある。 コンコルド広場に入るとちょっとした事件がもちあがった。私は、カメラを首にかけて歩いていたが、ひとりのフランス人がそばによってきてカメラを指差していた、ここは撮影禁止だといっているのかとおもったが、どうもそうではないらしい。首からカメラをはずすと、コンコルド広場の大きな観覧車をバックにふたりの写真をとってくれるということらしい。ずいぶんとフランス人というのは親切なものだな、とおもいながら、ポーズをとって、2枚ほど撮ってもらった。ここまではよかったが、こんどは自分たちのカメラで記念写真を撮ってくれるというのだ。ああ、そうゆうことか、とおもったが、写真を撮るくらいならお金を請求されてもたいしたことはないだろうと、2枚ほどふたりでとってもらった。ポラロイドカメラだから、すぐに写真はできた。写真をもらって、タダのわけがないだろうと、いくらと聞くと、なにかいっているがわからない。 しかたがない、10フランをいくつか出してみせた。ところが、ノン、ノンと首をふる、しょうがないな100フランぐらい必要なのか、とおもい札の入っている財布をひらいて、100フラン札を渡すと、財布の中をのぞき込み100フラン札をさらに3枚抜き取った。私は、冗談じゃないと金を返せというと、通じたのか、これが正規の値段だといわんばかりに、小さく200フランと書いた定価表らしきものお提示した。そして、そばにいた同業者を呼び寄せ、同意を求めているようだ。これは、これ以上かかわりをもたないほうがよさそうだとおもい、その場をさることにした。しかし、だまされたようで、後味の悪いおもいをした。高いが、勉強代とおもうしかなかった。フランスにもこのような輩がいるのだと、いままでの好印象が、少し減点だというおもいがした。 こんなことから、コンコルド広場はほとんど観ることもなく、早々にシャンゼリゼ通りの方向に歩をすすめた。シャンゼリゼ通りというと賑やかな狭い道の両わきに商店などが並んでいるのかと、想像していたが、大違いだった。くるまが、びゅん、びゅん、通る広い通りの両側がシャンゼリゼ通りだという。ブランド品を売る高級店ばかりなのか、あまり人通りも多くなく、比較的静かなものだった。道路の正面には凱旋門が大きく迫るようにたっていた。 そこからは、もときた道を戻り、ルーブルの近くにきて、左側にそれ、お土産屋が並んでいる方に向かった。小さな店が並んでいた、こういう店をのぞくのもまた楽しい。フランス人形を沢山展示している、店もあった。フランス人形というとホッソリとした顔立ちの人形を思い浮かべていたが、どうも違っていた、総じてフックラ顔だ。ヨーロッパ人は、このような顔を好むのだろうか。気に入った、人形があったら記念に買おうとおもっていたが、どうも顔立ちが気に入らなかった。パリの街では、いたるところで店の前の歩道に、テーブルとイスを並べ、カフェテラスというのだろうか、歩道を半分以上占領している光景がめにつく。客は、それぞれ、ワインや水らしき飲み物を飲んで、くつろいでいる。なんともよい雰囲気なので、ひとつのカフェテラスに入り、ワインとコーヒーを注文した。コーヒーはどうしても、ブラックになってしまう。コーヒーの種類は、なになのかを聞かれるが、よく分からないから、いつもブラックをたのむ。 たいがいの店は、お金は前払いで席まで飲み物を持ってきてくれる。水はワインとほぼ同じ値段だ、だから水はたのむ気がしない。フランス人は結構水を注文している、われわれは、どうしても水はタダという感覚が抜けきらないようだ。
昼近くになってきたので、昼食としよう。
まだ4時までには、時間がある。もう1軒、カフェテラスに入ってワインを飲もうと、女房を誘った。多少しかたなしにうなずいてくれた。ずいぶんすいている店であった、あまりすいていると、かえって入りにくいものだ。とりあえず入ってみた、若い女性の店員がいたが、注文も聞きにきてくれない。けげんな顔をしている、入ってはまずいのかなともおもったが、しばらく様子をみていると、男性の店員が近づいてきて、なにかいったがよくわからない、ファイブミニッツ・クローズと一部分、聞こえた。
さあ、そろそろ4時が近づいてきた。
9日目、午後2時30分定刻どおり成田に降り立った。 浜松のわが家に着いたのは、11時少し前だった。どうやら、初めての海外旅行も無事に、楽しく済んだようだ。女房に感想を聞いてみた。飛行機に乗る時間は長いし、苦痛だろうから、もうこりごりだ、とでもいうかとおもいきや、やみつきになりそうだ、といっていたから、結構それなりに楽しめたのかもしれない。 ヨーロッパの旅、終わり。 記:佐々木 武(2000-08) |