単身赴任物語

 軟弱!!現代モンゴリアン?(気の弱い人は読まないで下さい)

 アパートには当然であるかの如く、エアコン、温水給湯、ウォッシュレットなどが装備されている。寒い、冷たい思いや不潔感などから、快適さが追求された結果である。

 1973年(昭和48年)石油ショックによるトイレットペーパー、洗剤などの不足騒ぎが生じた年、香川県高松の遠戚を訪ねた。昔、高松藩の家老の家柄とあって、長い廊下には蜀台程度の豆電球が点、点とあるのみで質実剛健な生活伝統振りを伺い知る事ができた。みるからに頑固そうな明治生まれの古老が奥座敷に着物姿で威を正して座っていた。こわごわ挨拶をしたあとで、話してみると印象と違い話題が豊富で戦争時代のエピソードから、現代の問題まで解説するに及んだ。
 「叔父さん、トイレットペーパーの騒ぎをどうおもわれますか?」との質問には「敬三さん、犬でも鶏でも猿でも健康な動物のお尻を見てごらん、汚れているかね?」「たしかによごれておりませんね。」「だろう、用を足して紙をつかわにゃならんという事はもう病的じゃ、ワシなど今もって紙などつかわんでもきれいだぞ。汚れるのは食生活の乱れと肛門筋がたるんでおるのじゃ」と一喝された。
 そういえば自分でも紙をつかって白紙状態で全然汚れない時がある。そのときは体調のすこぶる良い時であることが、ふと頭をよぎったのである。

 なのに現代のトイレは暖められた座にすわり、温水で洗浄し、その上ペーパーでの除水するプロセスがいかにも習慣化されるように備わっている。人間工学的にみれば、洋式より和式のほうが犬、鶏、猿に近く自然のスタイルで汚れにくい事も云える。が人間のなりたちからみると、つい最近時に、日本はあふれんばかりの豊かな食生活、オフィスにすわることの多い仕事、歩く事を忘れそうな車社会、必要以上の清潔指向、終夜も人の絶えない繁華街やコンビ二など、反自然社会の生活が無意識のうちにも浸透している。

 現代社会文明の殆どを企業が創り出している構図において、例えると現代の日本人は動物園に飼われている精彩を欠いた動物の様だといわれる。
 朝、出勤時にみる集団登校する小学生が皆下を向いて黙々葬列のように歩いている光景と、むしろ飲料水も生活廃水も排泄物も一緒という国の子の目が活き活き輝いているのをTVなどで観ると、これらの違いをもう一度、思いなおしてみるべきではないだろうか。
 DBにUPされた喫煙問題、あるいは歩行の見なおしにもあるように、人間は「快適欲望方向」に傾いていく特性が強いだけに、かなり病的な処まできているという認識の基に、殊更に、賢い消費者、生き方を目指してやらなければならない事が見えてくるように思う。
 時折しも、都会の子供たちが、ひ弱になってきているという新聞記事を目にした。

<<追記>>
 念の為に補足しますがペーパーレスは未だ達成しておりません。単身赴任の身としては野菜の摂取、早朝ランニング、腹筋運動などに努めている。

記:田中敬三(2000-08)